デザインとは何なのか

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始めに断っておくと、僕はこの問いに対する答えを見つけられていない。それでもこういうことを書くのは、以前に書いた「デザインの敗北」というノートが、実質的に僕のデザイン観ともいうべきものを前提としていたからで、おそらくそれを伝えなければ一体全体何を主張しているのやら分からないだろう、と思ったのである。

さて、お手元の英和辞典を引くと、きっとデザイン(design)は「設計する」という動詞として説明されていることだろう。おそらくプログラマの方などは「デザインパターン」という言葉で目にしているだろうし、おそらくゲームデザイナーなんて言葉に含まれる「デザイン」もこちらの意味に近いだろう。

しかし、一般的な日本人の会話に於いて、「デザイン」という言葉がただ漠然と広く「設計」という意味で使われることはあまり多くないに違いない(と、少なくとも僕は感じている)。日本で日常会話に登場する「デザイン」という言葉は、もっと「外観」や「形」、「表現」に寄った意味で使われる場面が多いだろう。そういうときに言う「デザイン」は、「設計」よりもむしろ「意匠」という言葉が近く、実際知財にまつわる法の分野では意匠という言葉が使われる。

もちろんこんな事を書いたからには、僕自身が考える「デザイン」というものは、「意匠」とは異なっている。普段の会話の中ではコミュニケーションを円滑にするために「意匠」というような意味で「デザイン」という言葉を用いてはいるが、口にする度に、心の中では苦虫をかみつぶしたような顔をしているのだ。

……と、上記までが、noteで2014年6月15日に下書きした内容だ。冒頭で宣言されている通り、同年5月27日にnoteに投稿した「デザインの敗北」に対するフォローアップである。さぁ、話を続けよう。

僕は、「デザイン」を「介在するもの」なのではないかと捉えている。それはつまり、「材料力学の制約」と「要求される機能」の間を取り持ち「実現可能な構造」にすることであり、「画材や表現手法」と「受け手に対して与えたい印象」の間を取り持ち「具体的な表現」を構成することであり、何かと何かの間で境界面として介在している概念なのではないか、と。

僕が「デザインの敗北」で書いた「何らかの目的の為に一定の機能を持っている」はその言い換えだ。

そして僕が「使用者のいるプロダクト」に絞って「デザインの敗北」を論じ、それを「使用者のためのデザイン」でないと書いたのは、「敗北しているデザイン」であっても「使用者のいるプロダクト」でないもの――たとえば「表現」と「印象」や、「機能」と「感情」をつなぐためのデザイン――としては成立しうるからだ。

だから本当は、「コーヒーマシンの機能」と「クリーンな世界観の表現」との間に「抽象的でスリークなUI」を置くこともデザインであろうし、「抽象的で使い方の分からない機械」と「コーヒーを確実に正しく手に入れたい利用者」の間に「使い方をはっきりと示すテプラ」を貼ることも、またきっとデザインなのだ。